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ポータル 文学

  • 1 小伝
  • 2 経歴
  • 3 西鶴の再発見
  • 4 森銑三説
  • 5.1 好色物
  • 5.2 武家物
  • 5.3 町人物
  • 5.4 雑話物
  • 5.5 俳書
  • 5.6 その他
  • 6 西鶴に関連する小説等
  • 7 映画化
  • 8 参考文献
  • 9 脚注
  • 10 関連項目
  • 11 外部リンク

目次

井原 西鶴 – 1693年9月9日)は、江戸時代の大坂の浮世草子・人形浄瑠璃作者、俳諧師
。別号は鶴永、二万翁、西鵬
。談林派を代表する俳諧師であり、浮世草子作者としても人気を博したが、『好色一代男』をはじめとする浮世草子作品ばかり注目され、その俳諧が顧みられることは少ない

小伝

墓石側面に「下山鶴平 北条団水建」とあるが下山鶴平については不詳
。遺族の一人ならば、西鶴も下山姓であった可能性が高くなる
。『見聞談義』の「平山藤五」は「下山藤五」の誤記かも知れない
。同年冬に遺稿集として『西鶴置土産』が出版される
。口絵に西鶴の肖像を載せるが、そこには「辞世、人間五十年の究り、それさへ我にはあまりたるに、ましてや」と詞書した
。の句がある
。遺稿集の出版は翌年以後も続く
。『西鶴織留』)、『西鶴俗つれづれ』)、『西鶴文反古』)、『西鶴名残の友』)
。『名残の友』の奥には、『筆蔵』という書の予告がされているが、それは刊行されなかったらしい
。団水が中心となって催した西鶴の13回忌歌仙を載した『こゝろ葉』)の団水による「心葉緒」は、おそらく西鶴の伝記の最初で、「摂ノ浪速ノ産」「西山梅芲ノ門」「世ニ矢数俳諧ト称スル濫觴ハ西鶴ニ始リケル」「貞享元年六月五日摂ノ住吉ノ神前ニ於テ西鶴亦一日一夜ノ独吟二万三千五百首ヲ唱テ」「元禄六年八月十日浮世ノ月ノ句ヲ唱テ哦然トシテ世ヲ辞ス」などとある

と、西鶴が原稿料を前借りして踏み倒したというゴシップが載るが、都の錦という人物は信用するのは難く、また西鶴への対抗意識が強い人でもあったので、この話自体は眉唾
。ただ、当時の資料で原稿料については他には見えず、また通俗作家に限っても原稿料がある程度一般化するのは100年後なので、前借りは作り話だとしても稿料を貰っていたとしたら、西鶴はかなりの人気作家だったということになるだろう
。1693年9月9日に西鶴は没し、誓願寺に葬られた
。法名は仙皓西鶴信士、寺の日牌と月牌との記載に「鎗ヤ町 松寿軒井原西鶴 五十二」とあり、『難波雀』に記された鎗屋町で亡くなったことが分かる
。墓は現存するものの、場所を転々として元のままではないらしい

西鶴存生の時、池野屋二郎右衛門より、好色浮世躍といふ草子を六冊にたのまれ、いまだ写本を一巻も渡さずして、前銀三百匁かり、五日が間に南の色茶屋、木やの左吉が所江打込、其後池野やより、写本をさいそくするに、いついつは出来して渡そふ、これこれの日は埒が明くよしをけいやくする
。其日になりて請取んといへば、すこしさはる事がありて、草案を仕直すによつて思ひの外隙をとる
。当月中には埒が明と間似合の方便ばかりいふて、半年ほど引しらふ内に、西鶴此世をさり、

都の錦が西鶴没後に書いた『元禄大平記』)の「写本料にてめいわくに候」には

1683年正月、役者評判記『難波の貌は伊勢の白粉』を刊行
。1685年には浄瑠璃『暦』をつくる
。この作品は、浄瑠璃太夫の宇治加賀掾のために書かれたもので、自分の許を飛び出し道頓堀に竹本座を櫓揚げした竹本義太夫を潰すために、京都から一座を引き連れて乗り込んだ加賀掾が西鶴に依頼した作品
。敗北した加賀掾はさらなる新作を依頼し、西鶴は『凱陣八島』をもって応え、対する義太夫側は当時まだ駆け出しの近松門左衛門の新作『出世景清』で対抗
。今度は加賀掾側に分があったが、4月27日に火事にあい帰京したという
。この道頓堀競演については西沢一風の『今昔操年代記』に記されている
。なお、『歌舞妓始記評林』)に「往古の狂言作者には西鶴、杉三安、安達三郎左衛門、金子吉右衛門等ありといへども」とある

1682年10月、浮世草子の第一作『好色一代』を出板
。板下は西吟、挿絵は西鶴
。好評だったのか板を重ね、また翌々年には挿絵を菱川師宣に変えた江戸板も出板、1686年には師宣の絵本仕立にした『大和絵のこんげん』と『好色世話絵づくし』も刊行された
。さらに『一代』の一場面が描かれた役者絵が残っていることから、歌舞伎に仕組まれたこともあるようだ
。以後、後に『一代』とともに好色物と括られる『諸艶大鑑』、『好色五人女』)、『好色一代女』が立て続けに書かれるが、それから方向転換して、いわゆる雑話物や武家物と呼ばれるジャンルの物に手を染めるようになる
。この変化から、好色本の禁令が出たのではないかという考えもあるが、『色里三所世帯』))や『好色盛衰記』また遺稿の『西鶴置土産』など好色物は書き続けられているので、その説は信じがたく、またそのような禁令があったという証拠も存在しない

前出『生玉万句』)の自序に「世人阿蘭陀流などさみして」とあり、貞門俳人中島随流は『誹諧破邪顕正』)で宗因を「紅毛流の張本」、西鶴を「阿蘭陀西鶴」と難じ、同じ談林の岡西惟中は『誹諧破邪顕正返答』)で「師伝を背」いていると批難、松江維舟は『俳諧熊坂』)で「ばされ句の大将」と謗ったように西鶴は多く批判されたが、それはむしろ当時の談林派でのまた俳壇での西鶴の存在の大きさを証する
。ただ、西鶴は阿蘭陀流という言葉が気に入ったのか、『俳諧胴骨』)の序に「爰にあらんだ流のはやふねをうかめ」、『三鉄輪』)の序に「阿蘭陀流といへる俳諧は、其姿すぐれてけだかく、心ふかく詞新しく」などと言っている
。また西国撰の『見花数寄』)に載る西国と西鶴の両吟では、西国の「桜は花阿蘭陀流とは何を以て」という発句に西鶴が「日本に梅翁その枝の梅」とつけ、阿蘭陀流の幹に宗因を位置づける

1677年3月、大坂・生國魂神社で一昼夜1600句独吟興行し、5月にそれを『俳諧大句数』と題して刊行
。序文にて「今又俳諧の大句数初て、我口拍子にまかせ」と矢数俳諧の創始を主張し「其日数百人の連衆耳をつぶして」と自慢気に語ったが、9月に月松軒紀子が1800句の独吟興行でその記録を抜く
。しかも翌年『俳諧大矢数千八百韵』と題して刊行されたが、点を加えた菅野谷高政が序で西鶴を皮肉るような物言いをする
。翌1679年、大淀三千風が独吟3000句を達成し『仙台大矢数』として出版、その跋文に西鶴は「紀子千八百はいざ白波の跡かたもなき事ぞかし」「其上かゝる大分の物、執筆もなく判者もなし、誠に不都合の達者だて」と紀子の一昼夜独吟に疑いをかけ、「中々高政などの口拍子にては、大俳諧は及ぶ事にてあらず」と返す刀で高政をも切る

1675年、34歳の時に妻を亡くし1000句の追善興行、後に『誹諧独吟一日千句』と題し出版
。大坂俳壇の重鎮の多くを含む105名の俳諧師の追善句も載せる
。西鶴がこの年に法体になっていることは、翌年出版された『誹諧大坂歳旦』の西鶴句の詞書に「法躰をして」とあることから分かるが、妻の死を受けてのことだろうか
。またその句につけた鶴爪の「自由にあそばせ誹諧は花」から、この時に西鶴が隠居したという考えもある
。なお誓願寺の日牌と月牌には1692年に「西鶴妻」が亡くなったとあるので、再婚したのか
。ただ、後妻については他に見えず、「西鶴妻」は「西鶴女」の誤記だろうとして再婚を否定する意見も多い
。いずれにせよ、よくわからない

貞門の西村長愛子撰『遠近集』)に見える3句が現在残る西鶴句の初見で、その時の号は鶴永
。1673年、32歳の春、大坂・生國魂神社の南坊で万句俳諧の興行し後日『生玉万句』として出版
。おそらく処女撰集と考えられるこの自序に「世こぞつて濁れり、我ひとり清り」「賤も狂句をはけば、世人阿蘭陀流などさみして、かの万句の数にものぞかれぬ」「雀の千こゑ鶴の一声」と自らの新風を強調
。西山宗因の『蚊柱百句』に先立つこと1年、談林俳諧成立の記念碑的作品と見る見方もある
。また、その興行の出句者を見ると宗因の影が濃く、既に師宗因と出会っていた可能性が高い
。宗因の号西翁の一字をもらった西鶴号が、翌年正月の『歳旦発句集』に初めて見える

生年の1642年は没年と没年齢からの逆算
。芭蕉に2年年長で、没年も1年違いの同時代人
。伊藤梅宇の『見聞談叢』巻六に「平山藤五ト云フ町人」という記述があるが、他には見えないので本名か否かは不詳
。ただし、当時ふたつの姓を名乗ること自体は奇妙ではない
。団水編『団袋』の西鶴序に「ふるさと難波にて」とあり、団水は『こゝろ葉』に「摂ノ浪速ノ産」と書き、西鶴と面識のあった宝井其角も『句兄弟』に「されば難波江に生れて」と書いているから、難波生まれと考えていいか
。裕福な町人の出と言われているが、推測の域をでない
。水雲子撰『懐中難波すゞめ』)の俳諧点者付に「鑓屋町 井原西鶴」とあるのでその頃は鑓屋町に住んでいただろうが、そこは屋敷町に接した寂しい場所であったらしく商売を営んでいたとすれば生家は別のはず

経歴

長持に春かくれゆく衣がへ
鯛は花は見ぬ里もあり今日の月
大晦日定なき世の定かな
浮世の月見過しにけり末二年

代表作は『一代男』の他に『好色五人女』、『日本永代蔵』、『世間胸算用』など
。また代表的な発句は、

西鶴の再発見

明治30年代はロマン主義の隆盛に伴い埋没するが、自然主義文学が起こるなかで、みたび注目を浴びる
。例えば島村抱月は「西鶴の思想は多くの点に於いて却つて近代欧州の文芸に見えたる思想と接邇する
。個人性の寂寞、感情の不満、快楽性の悲哀、これ併しながらやみがたき人生の真相である」と、また田山花袋は「馬琴の稗史滅び、近松の人情物すたれ、一九、三馬の滑稽物は顧る者の無い今の時に当つて、西鶴の作品に自然派の面影を発見するのは、意味の深いことではないであらうか」と言ったように、紅露一葉の時代は主に西鶴の文体が注目されていたが、この時代になると自然主義に寄せつつその描写や思想的側面に注目が集まるようになった

森銑三説

『椀久一世の物語』、『椀久二世の物語』、『好色盛衰記』、『色里三所世帯』、『新吉原常々草』、『浮世栄華一代男』、『嵐無常物語』

また定本西鶴全集収録のうち摸擬西鶴作品と考えるのは、

『諸艶大鑑』、『大下馬』、『近代艶隠者』、『好色五人女』、『好色一代女』、『本朝二十不孝』、『色大鑑』、『懐硯』、『武道伝来記』、『日本永代蔵』、『武家義理物語』、『新可笑記』、『本朝桜陰比事』、『胸算用』、『置土産』、『織留』、『俗つれづれ』、『万の文反古』、『名残の友』、『暦』、『人目玉鉾』

森が西鶴関与作品とするのは以下の21作品

作品リスト

  • 西鶴置土産

  • 浮世栄花一代

  • 好色盛衰記

  • 色里三所世帯

  • 色大鑑

  • 好色一代女

  • 好色五人女

  • 椀久一世の物語

  • 諸艶大鏡

  • 好色一代

好色

武家物

  • 西鶴織留

  • 胸算用

  • 日本永代蔵

町人物

  • 新可笑記

  • 武家義理物語

  • 武道伝来記

雑話物

  • 西鶴名残の友

  • 万の文反古

  • 西鶴俗つれづれ

  • 椀久二世の物語

  • 本朝桜陰比事

  • 懐硯

  • 本朝二十不孝

  • 大下馬